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諏訪流について

 信州諏訪大社において贄鷹の神事を奉仕する諏訪大祝一族に継承されていたのが諏訪流であり、御射山祭では大祝が鷹によって捕えた獲物である「鎌隼の贄」を奉じる役を担っていたとされています。
現代に継承される諏訪流は古くは根津家、小林家、茅野家などいくつかの家が存在し、戦国時代以降、小林家によって伝承されました。
ですから、小林家諏訪流と言った方が正確であると思います。

 初代諏訪流鷹師 小林家鷹は織田氏より「家鷹」の名を

賜り、その後、豊臣秀吉、徳川家康と仕え、小林家は
徳川将軍家直参鷹匠となり幕末まで仕えました。
明治維新により、鷹匠は失職し、諏訪流は、維持後に
伊達家に預かりとなります。

 明治維新後、明治天皇の命により宮内省に皇室鷹匠として

召し抱えられ、古技保存として鷹狩りを伝承する役目を担い
十三代目小林鳩三、十四代目小林宇太郎は、浜御苑
(現浜離宮恩賜庭園)や新宿御苑の整備を任されます。
そして、各種の伝統的な鷹狩りを復活させ、第二次世界大戦前
まで日本の鷹狩り最後の黄金期を迎えるに至ります。
 
戦後、社会情勢の混乱の影響により
第十六代諏訪流鷹師 花見薫の時代を最後に公式の鷹狩り
は行われなくなりました。

日本の放鷹史に於いて、安土桃山から始まる小林家の諏訪流が

どのような位置づけにあったかご理解いただけると思います。
 
   


 

            諏訪流の系譜














     
             ~江戸幕府瓦解~

               鷹場制度・御鷹部屋廃止・鷹匠失職

 千駄木御鷹部屋(諏訪流)から小林段蔵 小林宇太郎、山本源之助(別称ゴエイ)三名 
                             → 小石川久堅町宇和島伊達家預り

                 
 雑司が谷御鷹部屋(吉田流)、加賀藩前田家借り受け(黒田家、加納氏)

  小林鳩三 宇太郎  明治天皇に鷹狩を御覧に入れる 黒田家 今戸本邸

   ・明治新政府(宮内省 主猟局)
   明治2年   浜御殿 新銭座鴨場 復興 小林段蔵 田中修三(恒三郎) 山本源之助
   明治4~5年 御鷹掛 小林段蔵 田中修三 山本源之助 加納十次郎
   明治6年   対外接待及び古技保存を目的として鷹匠(小林鳩三、坂本氏、他計三名)を

          招請 浜御苑(現浜離宮)の再整備を行う
   明治13年   小林宇太郎 安藤知四 黒田家鴨場を辞め 宮内省入省

 ・小林家諏訪流鷹師系譜
   十三代 小林鳩三(段蔵) → 十四代 小林宇太郎 → 十五代 福田亮助 → 十六代 花見薫

 

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  宮内省公式猟 

 兎巻狩り 富士裾野

右から2番目 花見鷹匠

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    隼上げ鷹猟 埼玉 越谷

右から 花見鷹匠 野地鷹匠補

諏訪流初代鷹師 小林家鷹(小林家初代)田氏より名・家鷹を賜る

徳川幕府鷹匠 
本郷御弓町 御鷹部屋消失 
 再建  千駄木 (諏訪流) 御鷹部屋

小林十郎佐衛門直時

小林三右衛門


小林五兵衛

           歴代鷹師について

     
  諏訪流十三代鷹師 小林鳩三(旧名 段蔵) (生没不明) 
                                                   徳川将軍家直参鷹匠 駒込動坂上 鷹匠組屋敷在

明治元年 宇和島伊達家鴨場(小石川久堅町)召し抱え
     伊達家本邸にて明治天皇に鷹狩を披露
明治2年 浜御殿 新銭座鴨場復興に従事 (田中修三 山本源之助 と共に)
明治4年 宮内省 御鷹掛


    後に再び伊達家に召抱えられる。

  諏訪流十四代鷹師 小林宇太郎(1862年~1941年)

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宮内省諏訪流鷹師  元徳川将軍家直参鷹匠
 
花見薫の師匠にあたり、
  「鷹から生まれた名人」と称賛される

文久2年 生まれ
明治元年 5歳まで鷹匠組屋敷(駒込動坂上)で生活
​     その後、父段蔵 山本源之助と共に
     宇和島伊達家鴨場(小石川久堅町)お抱え
     明治天皇へ御鴨献上続く
明治12年(19歳)宮内省入省

         昭和4年10月24日 退官
明治15年~17年 
浜離宮庚申堂・新銭座鴨場、
      新宿御苑改修 
埼玉越谷鴨場造営携わる

    ここまで浜御苑、新宿御苑掛持ちで鴨猟継続
明治21年 4月  宮内省 一時辞職 

         伊達家鴨場(大塚中町)に勤務
明治33年 12月 宮内省再入省 千葉新浜鴨場を開設
明治37年   浜離宮へ異動 放鷹調査委員会発足
明治38年   小林宇太郎鷹師 他叙勲
大正  2年5月  新浜鴨場 在勤 
大正  7年   鷹師に任ぜられる
大正  8年     勳七等瑞宝章

大正 10年    越谷御猟場 新設のため 出張 
大正 15年12月 埼玉鴨場 在勤
昭和  2年        従七位 
              菊花紋銀賜杯賜る・3回
昭和 4年   退官
昭和  7年     兵庫県平荘鴨場嘱託
昭和16年   12月31日逝去

諏訪流十五代鷹師 福田亮介(~1961年)

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16代鷹師   花見薫の兄弟子に当たる

明治34年   宮内省入省
明治37年   放鷹調査に14代鷹師小林

          宇太郎と共に任に就く 
 

新宿御苑、浜離宮、埼玉越谷鴨場、新浜鴨場 歴任。
 

昭和14年   秋田県乳頭山にてクマタカに

       よる兎猟を行う
昭和21年   3月31日定年退職。
昭和36年(1961)8月22日逝去

~放鷹調査~
日露戦争の折、敵間の連絡手段であった伝書鳩を

ハヤブサにより撹乱、捕獲するため、宮内省が陸軍と協力し実施された。
一段階目のテストとして、東京湾のお台場で鷹匠が

出した鳩に、浜離宮からハヤブサをスタートさせて

襲わせる、というところまで実施されていた。

その後、旅順が陥落したので中止されたが、この功績により戦争集結後に叙勲。

諏訪流十六代鷹師 花見薫 (1910年~2002年)

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明治43年10月25日 茨城県潮来生まれ
大正13年(14歳) 宮内省 浜御苑

            (現浜離宮)入省
大正15年    埼玉越谷鴨場に鷹匠本部移設
昭和 2年    鷹匠補から鷹匠に
昭和 4年    小林宇太郎鷹師(実子無し)

        退官に際し小林家・家伝

        「鷹書」を授かる
 

昭和17年3月25日 新浜鴨場在勤 飼付主任
昭和22年     同猟場監守
昭和40年     新浜鴨場猟場長
昭和43年     埼玉鴨場猟場長
昭和47年     埼玉鴨場長
昭和51年     宮内庁退官
昭和55年     勲六等瑞寶賞
昭和60年    日本放鷹協会初代会長 就任
平成14年7月11日  逝去 享年91歳

 

昭和40/04/23 赤坂御苑園遊会

昭和45/11/23 新嘗祭神嘉殿の儀
昭和48/01/12 歌会始の儀 

昭和56/05/08 赤坂御苑園遊会 それぞれ招かれる

  系  図​ 民間への伝承~  

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小林一門と同時期にいらした石崎政五郎鷹匠が含まれていませんが吉田流の鷹匠でありますので
ここでは掲載しておりません。

*花見薫氏直系の諏訪流鷹匠について

 ・花見鷹師が直接認定した諏訪流鷹匠は田籠善次郎氏、篠崎隆男氏、室伏三喜男氏の3名のみです。  

 ・上記、放鷹協会創設者 3名以外、花見鷹師から話を伺っている方がいらっしゃいますが
  技術の伝承を重視し、花見鷹師より直接、現場で訓練や猟の技術指導を受け
  伝統の橋渡し役としてふさわしい継承者として認定された方のみ掲載いたします。
 
 ・過去に花見鷹師が今村光男氏を鷹匠認定した事例はございますが、諏訪流鷹匠としてではなく
  儀式的意味合いとしての鷹匠である旨、確認しております。

*日本放鷹協会認定鷹匠資格は必ずしもアガケの技術体系を基準としているものでなく、当初より諏訪流鷹匠の認定は行われておりません。正確には花見薫鷹師
直伝の諏訪流鷹匠と分ける必要があります。
    
   (協会内に於いて日本放鷹協会鷹匠とすることは、発会時、創設者3名の方針によるもの)

 

              諏訪流の現代史

 現代諏訪流の流れは小林一門の鷹匠に師事した鷹匠以外には確認できておらず、花見薫鷹師以外にも高木薫鷹匠に師事された方もいらっしゃるようです。

 宮内省鴨場で、初夏の鷭猟、兎の巻狩り、隼による上げ鷹猟など各種の公式猟が行われていたのは、事実上、戦前までということでありますが、明治政府が古技保存として鷹狩の保存に肩入れして以来、ここまでが、日本の鷹狩りの最後の黄金期であると言えます。そして、江戸の流れを色濃く残した、戦前の鷹狩りを経験された鷹匠は諏訪流では小林一門ということになります。
それは、当時の自然環境、獲物の多さ、そして、職制の中で鷹匠が守られ、伝承に十分な環境が整っていたことが非常に大きい要素です。

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左から 篠崎隆男鷹匠、田籠善治郎鷹匠、 花見薫先生、室伏三喜男鷹匠 1989年、足立区郷土博物館による実演は、日本の鷹匠界にとって初めての 実演となった

 戦後にいたり、鷹による公式猟が次々と外され、鷹の出番はなくなり、花見氏は何とか存続しようと尽力されたようですが、なかなか困難であったようです。
小林一門の若い鷹匠も戦争の影響で死去、または、年齢的に退官されたりと黄金期を体験した鷹匠も少なくなり、江戸の流れを受けた日本の鷹狩りは終焉を迎えました。ここまで体系だった鷹狩りは日本独自と言っても過言でないものであり、当時の鴨場施設や素晴らしい道具の数々など文化遺産に等しいものです。

 その後、鴨場での鷹狩り復活は困難であろうという時期に、田籠善次郎氏(現諏訪流保存会)が鴨場に場長をされていた花見薫氏を訪ね、篠崎氏、室伏氏(のちに日本放鷹協会設立)の3名が花見氏に師事することとなりました。
1983年、日本放鷹協会が(上記3名により)設立され、

1985年 花見薫氏が初代会長として招かれました。

 当時は鷹狩りに対する認知はほとんどなく、法律の範囲内の狩猟でありながら、「鷹狩=違法」という誤解まで広まっており、大変な苦労を強いられてきたようです。花見鷹師達プロの鷹匠の情報は

宮内庁から当時、一切世間に出ることがなかったことも大きな原因の1つです。
 そのため、正当性のある活動を積み重ね、世の中に日本の伝統的な鷹狩りの文化的価値を認識してもらい、底辺を広げる事を目標とし日本放鷹協会が創設され、花見氏のもと、創設者3名の鷹狩り文化への多大なる想いと努力の結果、この活動は民間鷹狩りの黎明期を支え、後世への貴重な火種を残し一つの成功を納めたと言えます。また、国内での放鷹実演や技術の利用として傷病猛禽類のリハビリ活動の先駆けとなり、その活動は現在も広がりを見せています。

 一方で近年、徐々に西洋から多くの技術や道具類が導入され、愛好家が楽しむため効率よく、最小限の訓練工程や技術、使いやすい道具類など合理化されて広まりつつあります。
繁殖育成技術の進歩により海外から扱いやすい鷹が入手されるようになり、愛好家にとっては鷹狩りを楽しむことが身近になりつつあります。


 反面、鷹匠自身の技術の研磨によるところが大きい、諏訪流の本質である神経細やかな野生の鷹に

通用する技術体系や訓練方針は希薄になり、変化して行ったことは否めないでしょう。
「温故知新」という言葉にあるように原点回帰、伝承者として先人達の経験の積み重ねによって練り上げられた伝統を踏襲し、約1700年にも渡り携わった数々の先人たちの総意を大切に、時流に合わせた正しい変化をしていくことが伝統技術者であり、伝承であります。

 現代の花見薫氏 直伝の3名の諏訪流鷹匠は諏訪流の本質的なものを大切にし、後継者育成に尽力するため、現在はそれぞれの活動をされています。また、そのような想いから当会も設立に至ったことから、今後の諏訪流放鷹術の展開が楽しみです。

 小林一門から伝承された、放鷹術は起源となる中央アジアから、シルクロードを東に向かい、中国、朝鮮半島を経由し、島国である日本に到達し、約1700年もの間、続いた東ルートの最終形態で、

現在、主流となりつつある西洋の影響を受けておらず、天皇を中心とした独特の国家構成の下、影響を受けつつ育まれた技術体系や芸術性は、世界の放鷹と比較しても独自性という点から文化的価値は非常に髙いものです。
 

取り巻く、自然環境や規制の中、技術者を育成し、伝承していくことは容易いことではありませんが、先人達が積み重ねた意を汲み、技術や感覚を大切に継承していかなければなりません。

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